E. Howard 社製塔時計機械潤滑油の選定

2013 年まで Klüber Lubrication 社にて製造されていた Lusin 時計油は、1890年代の W. Cuypers 時計油に由来しており、鉱物油、動物油および酸化防止剤の混合で作られていた[1][2]。20世紀以降の石油精製技術の向上を経て現代の潤滑油にはより高い性能が求められ、純度の高い鉱物油や化学的に合成された潤滑油 (合成油) が利用されるようになっている。本稿では、E. Howard 社製の塔時計機械に利用する潤滑油として、生産終了となった Lusin 時計油の代替候補を提案する。

今回、検討および調査した潤滑油を表1に示す。

表 1

選考潤滑油の特徴 [3] [4] [5] [8]

潤滑油名称 特徴
Moebius Microgliss D-2, D-3, D-4, D-5 ウォッチ、クロックの中高トルク部潤滑
Moebius Synt-HP500, HP750, HP1000, HP1300 同上、宝石軸受用
Moebius Synt-A-Lube 9010 ウォッチの高速、低トルク部潤滑
Moebius Synt-A-Lube 9014 9010の低粘度、低温環境用
Moebius Synt-Visco-Lube 9020 9010の高粘度、低速・高トルク部潤滑
Citizen AO-3 ウォッチの低中トルク部潤滑
Citizen AO-V ウォッチの高トルク部潤滑
Lusin No.3ウォッチ用ホゾ油
Lusin No.4クロック用全般潤滑油
J.D. Windles Turret 塔時計用[10]
表 2

潤滑油の温度特性 [3] [4] [5] [8]

温度あたりの動粘度[cSt] 流動点[℃] 使用温度[℃]
-30 0 20 35 40 80 100[℃] 下限 上限
Moebius 9010 625 150 52 -42 -30 70
Moebius 9014 400 100 36 -45 -35 70
Moebius 9020 1450 270 78 -39 -25 80
Moebius D-2 260 75 29 -32 -30 70
Moebius D-3 900 190 64 -30 -22 80
Moebius D-4 1900 330 100 -25 -15 80
Moebius D-5 7300 1200 295 -10 -5 80
Moebius HP500 2300 500 156 -30 -30 100
Moebius HP750 3300 750 220 -30 -35 100
Moebius HP1000 4700 1000 312 -30 -30 100
Moebius HP1300 5900 1250 380 -30 -25 100
Citizen AO-2[9] 1700 170 60 25 8 5.3
Citizen AO-3[9] 6800 550 170 70 20 12
Citizen AO-V[9] 14600 1050 300 120 30 18.5
Lusin No.3 55[6] -24[7]
Lusin No.4 220[6] -25[7]
J.D.Windle's Turret[11] 32
図 1

環境温度による動粘度変化

Temperature - Viscosity graph of Lubricants

注: Y 軸 (動粘度) は対数目盛

表2および図1より、Lusin No.3 と近い動粘度の潤滑油は、Moebius 9010 (Synt-A-Lube)、Moebius 9014 (Synt-A-Lube 低温用)、Citizen AO-3 である。Lusin No.3 は塔時計機械の脱進機の潤滑に使われることと、使用箇所が比較的屋外空気から離れていることから、水分への耐性の 9010 や低温 (-20℃以下) への耐性の 9014 よりも、常温から低温の間で動粘度変化の少ない AO-3 が望ましい。Moebius の潤滑油表によると、クロックの脱進機の潤滑油はMoebius 9020 (Synt-Visco-Lube) であることから同潤滑油および Citizen AO-V も候補ではあるが、一般的なクロックと比べ塔時計機械は高い頻度で給油が可能であるため、動粘度が低く保油性の劣る潤滑油でも影響は少ないと思われる。

Lusin No.4 の動粘度が同等の潤滑油は Moebius Synt-HP-500 (9101) である。ただし HP-500 (Synt-HP シリーズ) はルビー軸受での潤滑に最適化されており、黄銅軸受に対しては Microgliss D シリーズが推奨されている[4]。一方、Microgliss D-4 は HP-500 や AO-V と比べると、低温での動粘度の上昇が大きい。結果、動粘度の温度変化の少ない Citizen AO-V が望ましい。

日の裏輪列は Lusin No.4 の使用箇所ではあるが、雨や雪に晒され耐水性が求められるため、Moebius 9020 が選択肢に挙がる。

いずれの潤滑油も、他の潤滑油や古い潤滑油と混合して使用すると性能が低下する可能性がある。新たな潤滑油を注油する際は、注油箇所を十分に洗浄を行うことが推奨される。

以上より、選定された潤滑油を表3に示す。

表 3

選定潤滑油

注油箇所 潤滑油名称
脱進機、低トルク動作部分 - アンクルホゾ、ガンギ車ホゾ、ガンギ車歯面 Citizen AO-3
上記外輪列Citizen AO-V
日の裏輪列Moebius 9020

注・参考文献

  1. 株式会社ムラキ「KLUBER社ルージン油製造中止のお知らせ」https://www.muraki-ltd.co.jp/tool/20131023.pdf (2024/5/10 確認)
  2. スイス、レ・ブルネの時計用軸受製造企業 Pierre Seitz 社の論文。Seitz 社「時計の潤滑」村木時計株式会社訳『日本時計学会誌』日本時計学会、31 巻、1964 年、37〜48 頁。
  3. The Swatch Group Research & Development Limited, “Oils,” https://www.moebius-lubricants.ch/en/products/oils (2024/5/10 確認)
  4. The Swatch Group Research & Development Limited, “Lubrication Table,” https://www.moebius-lubricants.ch/sites/default/themes/moebius/extras/pdf/tableEN.pdf (2024/5/10 確認)
  5. 勝沼愛生『時計油の知識』時計技術社、1959 年、23 頁。
  6. 動粘度の単位は[c.s]で記述されているが、本稿では[cSt]として扱う。同書、23 頁。
  7. 氷結点[℃]での記載だが本稿では流動点[℃]として扱う。同書、23 頁。
  8. シチズン時計株式会社「AO-オイル」https://miyotamovement.com/jp/technology/ao-oil.html (2024/5/10 確認)
  9. 動粘度の単位は[mm2/sec]。[cSt]と等しい。同上。
  10. アメリカ・ニュージャージー州 Cranbury 郡区庁舎の塔時計機械に使用されている。E. Howard 社 1906 年製 Strike Clock。Paul Mullen, Richard Kallan & Bill Kanawyer, “Tower Clock Maintenance,” Cranbury Township Clock Winding Committee, 2018, https://www.cranburytownship.org/sites/g/files/vyhlif4296/f/uploads/maintenance-manual.pdf (2024/5/10 確認)
  11. Turret Clock はイギリス英語で塔時計を意味する。動粘度の単位の表記はないが、本稿では[cSt]として扱う。————, “Health & Safety Data Sheet: J.D Windle's Turret Clock Oil,” https://www.cousinsuk.com/PDF/products/8809_Windles.pdf (2024/5/10 確認)